Claude Monet
<モ ネ>
1840〜1927 |
フォルムの源泉に舞うニンフの美学 マネの体験主義(的自然主義)の微分、行動主義の次元。
シスレー、ルノワール、ピサロ、第一回印象派展:1872 |
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l)客 体= |
自然世界、環境、水面(マネの鏡映に対応する反射・反映の媒体)、光景(光・大気・ものの場)。事象(時間的実在)。 |
Motif
2)契 機= |
現象場の実感。トナリテ、オーリトミーの世界。即時的自然の変容、うつろいゆく不確定な事象の全体場。 光と物象と空間の無限的統一との出合い・語らい。知られざる実在への実感的アプローチ ;彼我の出合い、境界領域での探渉。 |
Sujet
3)主 体= |
「眼」、媒体、皮膚感覚的・感応器、鋭敏・繊細・謙虚、虚無・没我、主情主意的叙事詩人、ヴィザール(直視者)、臨床的観察者、実感実証的現象論者、懐疑的・批判精神(絶対否定的)、反即物・本然主義、因果的自然観、知覚表象と表現との媒体としての実存的美学者。反アカデミスム、反理想・反ロマン、反レアリスム、反ナチュラリスム(汎神論・理神論的自然観に対して)。反ナチュリスム(マネの即事、ドガの即時・状況に対して )。外光派、脱都会派、反物量、実利・合理主義、アナルシー(不条理・自然児)、ボヘミアン、デカダン、ペシミスム、「貧乏絵描き」 |
Image
4)心 象= |
表象場の直視(正面視)、タテから肉眼で出合う生と光彩の宇宙 。汎神論、ロマンの叙事的自然観に対す。
エラン・ヴィタールとしての現象場、リトム・アルモニーの無限のヴァリアシォンとしての自然、自他、主客の媒質体としての超越的世界。
自然への無心の企投(献身)による切実な感覚(サンサシォン)の構成場 科学的自然観に対す。
既得の現実としての「物体・空間・光」ではなく、主体の実感の無限的(継起連続的・交錯・重合的・変容的)光彩の場。 |
Construction
5)意識構造= |
 有と無を超越した自然との照応、によって反写実主義であり、事象の内なる実在の次元、語られざる瞬視の境に身をおくことにおいて客観的時事的本然主義と一線を画す。
価値・意味以前の現象学的次元での自然との交わりであり、既定の対象価値(直接体)及びその観念(主体系)を絶対否定し、純粋な彼我の接点に絵画的宇宙としての表象世界を模索する。
客観的類型となっていたフォルムの統一性は、レアリスム革命によって批判され、より主観的に、実質量と場の価値・固有性と全体性は自覚的目的的統一の意志によって構成されるべきものとなった。主体の喚起、その現実の高揚である。これをうけて個性的・日常的営為の素材と場としての「事実」、そのありのままの「ものごと」としてのフォルムが、ナチュリスムによって映し出される。日々の心象・情況の映像としてのそれはしかし、空間的・物量的組成を解かれ、明日の現実との交互作用を欠いた残照である。 うたかたのさだめなき現在、その日その時のフォルムである。
本然主義の「日々」が「この場・この一瞬」の生の不確定性・無限性に流れていくのは必至だった。マネのデカダンに集うゲルボア党の革命的美意識の疎外感とヴィタリテは、既存の体制・街と現実の価値体系を捨てて、より自由で無限な生と輝ける真実を、戸外の自然との語らいに求めていくのである。
生活の用に描いたカリカチュア(人物戯画)を脱皮してブーダンの自然にひらかれたモネは、バルビゾン派(特にコロー)の自然観照を経てサロンの現実(レアリスム)を踏んだ。ここでマネ・ドガの自然に出合うのである。 対象ではなく、主体の現実、主観的個性的な世界を見出し、自分の眼で見、道を切り拓いていかなければならないのである。
画家は一個の生活者として、創造的な表現者として独立することを新しい時代は要求していた。 生きること、考えること、描き表現することの全体が「現在としての芸術家」の条件である。
まず、生きること だ。街のはなやぎ・唯物・実利・あらゆるものが再生的(レクレアシォン)、無常で無秩序でアンニュイだ。では考えること 何を、いかに、何のために アカデミスムが考えた。ロマン主義が想った。写実主義が企図し構造した そして、本然主義は観察表記によって思惟を斥けたではないか
さて、構成表現、つまり絵はどうか。
叙事的であれ、抒情的であれ、既得の「与えられてある現実形態(フォルム)」は科学的自然観と主観的実証精神によってその存立の条件をおびやかされている。空間的体系性(遠近法)と物量(ボリューム)の一般性(客観性)が失権して、現実的な個々と場の統一性が批判されているのである。主観的個性的な体験的フォルムだけが真であり、内的必然をもつ血の通った表現なのだ。
そしてさらにその現実は、昨日の完結したものではなく、この場にあり、この一瞬に息づく「現在」でなければならない。完結されざる、生成進化の現在、その現象場に、一つの媒質となって働くことに継起する色と形のヴィタリテの無限的超越世界に、生のフォルムを試みることだ
史的社会的価値体系にデカダンし、主知主義に疎外された実感的な詩情は、現実のはざまの残された沈黙的可能的大地に自己の無限的宇宙を希求していくのである。客観的観察(本然主義や料学)による概念としての自然ではない。「判断」よりも「判断すること(批判)」の主体たること、その切実な実感的生のヴァリアシォンの契機・媒介としての自然である。
無限のイマージュを産出する源泉としての物質と光の作用場に「生き、思索し、タブローする」三位一体の宇宙の現在がある |
Composition
6)構成契機= |
表象場に直面(直視)し、その空間的質量的持続性・現実的統一性を絶対否定すること、その否定契機の継起連続にもたらされる色覚の総体が構成場を展開する。
すなわち、対象的世界と主体のイマージュの背反やなれ合いを否定、主客の出合いの場・触媒領域に実感的色覚、それ自体(一つのメカニズム)となる虚心によって無限的な実在と語らう この対話のすべてが画面構成をもたらすのである。「モネは眼にすぎない。だがなんという眼だ (セザンヌ)」
たしかに眼である。しかしレンズのような眼ではない。それは抉る眼であり、読む眼である。そして何よりも感じ、うたう生の愉悦である。ここに客観的・科学的あるいは主観的喚起的自然観との相異がある。
モネはここにあり、ここ以外のどこにも、何ものにもとらわれないのである。観念にも、対象にも である。
画家は、自然と人間の接点と時点の無限連続の宇宙で一つの媒質となった。この超越に「おのずからなる絵画が生れる」。 |