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創造のための美術史講座
No.3
Impressionnisme
印象主義
<モネのこの場, この一瞬>

 

編著 関根英二;ルボー主宰
 
現象学的実在探求街を捨てて自然にかえれ  CIaude Monet (1840〜1927)

 史的社会的価値体系(アカデミスム)の批判として提起されたレアリスム革命は、その論理の必然から、既得の現実よりも現在の生の事実と主体の真実とを問うナチュリスムをもたらすものとなった。
「現代性とは束の間のもの、うつろいやすいもの、偶発的なもの」美術評論家でもあるデカダン詩人(C.B.)は美の現在をこう定義している。
 伝統の範型、理想、ロマン的主題、統一的静的世界観、客観的論理、完成、様式性、技法すべては空しい。生の疎外である。
 美の現在と生の全体を求めたレアリスム・ナチュリスムの思潮はその果てに「この場、この一瞬の実感」にまで現実と主体の世界を立ち到らしめる。
 時代精神は叙事的、抒情的な観念の制約を解脱し、日々のより自由な生に知情意の主体系一個人の復権を試みたのである。
 自然科学的世界観がこれに呼応した。人間を「実存」の次元に、世界を因果律の過程にある「現象」に、価値は実感、つまり体験の直視に表象される抽象的要素要因に、と唯物・実証の時代精神を要求していくイデア(理想)もロマン(抒情)もなく、霊も意味も価値もなく、肉も物体(総体)も空間(構造)も無い。あるがまま、なすがままの分子と現象の自然弁証法の世界となった。
 こうした自然と人間と芸術の転変・否定契機の場で、まさにその実在論に、生の希求と実感を追って価値の原点を問う現象学的模索が始まる。

 

印象主義 (Impressionnisme)
Claude Monet
<モ   ネ>
1840〜1927
フォルムの源泉に舞うニンフの美学マネの体験主義(的自然主義)の微分、行動主義の次元。
シスレー、ルノワール、ピサロ、第一回印象派展:1872
  0bjet
l)客 体=

自然世界、環境、水面(マネの鏡映に対応する反射・反映の媒体)、光景(光・大気・ものの場)。事象(時間的実在)。
  Motif
2)契 機=

現象場の実感。トナリテ、オーリトミーの世界。即時的自然の変容、うつろいゆく不確定な事象の全体場。光と物象と空間の無限的統一との出合い・語らい。知られざる実在への実感的アプローチ;彼我の出合い、境界領域での探渉。
  Sujet
3)主 体=

「眼」、媒体、皮膚感覚的・感応器、鋭敏・繊細・謙虚、虚無・没我、主情主意的叙事詩人、ヴィザール(直視者)、臨床的観察者、実感実証的現象論者、懐疑的・批判精神(絶対否定的)、反即物・本然主義、因果的自然観、知覚表象と表現との媒体としての実存的美学者。反アカデミスム、反理想・反ロマン、反レアリスム、反ナチュラリスム(汎神論・理神論的自然観に対して)。反ナチュリスム(マネの即事、ドガの即時・状況に対して)。外光派、脱都会派、反物量、実利・合理主義、アナルシー(不条理・自然児)、ボヘミアン、デカダン、ペシミスム、「貧乏絵描き」
  Image
4)心 象=

 表象場の直視(正面視)、タテから肉眼で出合う生と光彩の宇宙。汎神論、ロマンの叙事的自然観に対す。
 エラン・ヴィタールとしての現象場、リトム・アルモニーの無限のヴァリアシォンとしての自然、自他、主客の媒質体としての超越的世界。
 自然への無心の企投(献身)による切実な感覚(サンサシォン)の構成場科学的自然観に対す。
 既得の現実としての「物体・空間・光」ではなく、主体の実感の無限的(継起連続的・交錯・重合的・変容的)光彩の場。
 Construction
5)意識構造=

有と無を超越した自然との照応、によって反写実主義であり、事象の内なる実在の次元、語られざる瞬視の境に身をおくことにおいて客観的時事的本然主義と一線を画す。
価値・意味以前の現象学的次元での自然との交わりであり、既定の対象価値(直接体)及びその観念(主体系)を絶対否定し、純粋な彼我の接点に絵画的宇宙としての表象世界を模索する。
 客観的類型となっていたフォルムの統一性は、レアリスム革命によって批判され、より主観的に、実質量と場の価値・固有性と全体性は自覚的目的的統一の意志によって構成されるべきものとなった。主体の喚起、その現実の高揚である。これをうけて個性的・日常的営為の素材と場としての「事実」、そのありのままの「ものごと」としてのフォルムが、ナチュリスムによって映し出される。日々の心象・情況の映像としてのそれはしかし、空間的・物量的組成を解かれ、明日の現実との交互作用を欠いた残照である。うたかたのさだめなき現在、その日その時のフォルムである。
 本然主義の「日々」が「この場・この一瞬」の生の不確定性・無限性に流れていくのは必至だった。マネのデカダンに集うゲルボア党の革命的美意識の疎外感とヴィタリテは、既存の体制・街と現実の価値体系を捨てて、より自由で無限な生と輝ける真実を、戸外の自然との語らいに求めていくのである。
 生活の用に描いたカリカチュア(人物戯画)を脱皮してブーダンの自然にひらかれたモネは、バルビゾン派(特にコロー)の自然観照を経てサロンの現実(レアリスム)を踏んだ。ここでマネ・ドガの自然に出合うのである。対象ではなく、主体の現実、主観的個性的な世界を見出し、自分の眼で見、道を切り拓いていかなければならないのである。
 画家は一個の生活者として、創造的な表現者として独立することを新しい時代は要求していた。生きること、考えること、描き表現することの全体が「現在としての芸術家」の条件である。
 まず、生きることだ。街のはなやぎ・唯物・実利・あらゆるものが再生的(レクレアシォン)、無常で無秩序でアンニュイだ。では考えること何を、いかに、何のためにアカデミスムが考えた。ロマン主義が想った。写実主義が企図し構造したそして、本然主義は観察表記によって思惟を斥けたではないか
 さて、構成表現、つまり絵はどうか。
 叙事的であれ、抒情的であれ、既得の「与えられてある現実形態(フォルム)」は科学的自然観と主観的実証精神によってその存立の条件をおびやかされている。空間的体系性(遠近法)と物量(ボリューム)の一般性(客観性)が失権して、現実的な個々と場の統一性が批判されているのである。主観的個性的な体験的フォルムだけが真であり、内的必然をもつ血の通った表現なのだ。
 そしてさらにその現実は、昨日の完結したものではなく、この場にあり、この一瞬に息づく「現在」でなければならない。完結されざる、生成進化の現在、その現象場に、一つの媒質となって働くことに継起する色と形のヴィタリテの無限的超越世界に、生のフォルムを試みることだ
 史的社会的価値体系にデカダンし、主知主義に疎外された実感的な詩情は、現実のはざまの残された沈黙的可能的大地に自己の無限的宇宙を希求していくのである。客観的観察(本然主義や料学)による概念としての自然ではない。「判断」よりも「判断すること(批判)」の主体たること、その切実な実感的生のヴァリアシォンの契機・媒介としての自然である。
 無限のイマージュを産出する源泉としての物質と光の作用場に「生き、思索し、タブローする」三位一体の宇宙の現在がある
 Composition
6)構成契機=

 表象場に直面(直視)し、その空間的質量的持続性・現実的統一性を絶対否定すること、その否定契機の継起連続にもたらされる色覚の総体が構成場を展開する。
 すなわち、対象的世界と主体のイマージュの背反やなれ合いを否定、主客の出合いの場・触媒領域に実感的色覚、それ自体(一つのメカニズム)となる虚心によって無限的な実在と語らうこの対話のすべてが画面構成をもたらすのである。「モネは眼にすぎない。だがなんという眼だ(セザンヌ)」
 たしかに眼である。しかしレンズのような眼ではない。それは抉る眼であり、読む眼である。そして何よりも感じ、うたう生の愉悦である。ここに客観的・科学的あるいは主観的喚起的自然観との相異がある。
モネはここにあり、ここ以外のどこにも、何ものにもとらわれないのである。観念にも、対象にもである。
 画家は、自然と人間の接点と時点の無限連続の宇宙で一つの媒質となった。この超越に「おのずからなる絵画が生れる」。
構図;  主体系の自然な<目>を原点とし、主題となる実在(モチーフ)をつねに画面全体に展開する。地:図、中心画像と背景の別なく、ものも空間もすべてが等しく主題の要因である。俯角では大地・水面と物象が相呼応しつつ、足下の近空間から遠心的にSe空間(静的空間)に拡充され有による無限を成し、仰角では天空・大気と樹木・建物などがDe空間(動的空間)に呼応(相互作用)、渾然一体となって無限的光彩の拡がりを成す。
 構成契機となる「媒介」は、もの(実・有)と空間(無限)における「大気・天空・光彩」であり、特に「水面」に象徴的である。これは大地と天空を反映によって一化するものとして、また遠景と近景とを重合するものとして、さらにはそれらに乗じて水中・水底の物象を多彩に変容させる無限的な媒質体である。(池の連作)
 また、限られた主題の即事的変容は、極小極大の理で活用展開され、シリーズを生みだす。したがって対象物・対象場の固有性・特権性は一つの媒体となり、現象場の照応作用の要因として相関的・相互的に自己開展していく
 原則的に、印象主義は観念的構想を斥け、叙事的フォルムの特権性を認めない「自由・平等・博愛」の美学であり、その実感的行為の軌跡が作品となる。したがって構図とは生命(ヴィタリテ)の場であり、そこにあるすべては等価に、共感をもってマッシブな光彩の豊饒に寄与し、それに無化していくのである。
 Technique
7)技 法=

 現場での即時的連続的構成(スケッチ)ブーダン、ヨンキントの写生に学ぶ。
 基本的には、いくつかのトーンとリトミックなトナリテの集まり、その相関性(種類と脈絡)。それら相互の作用場の呼応と展開そしてアクサンの加味ヴィタリテの強調。
 「対象が何か、を忘れ、あそこには青い小さな四角、こちらにはバラ色の帯、あちらに黄色の線がある。
というふうに、眼に映じたままの色と形を描きつづけるのです。眼前の光景からくるあなたの素直な印象がそこに姿をあらわすまで(モネ)」
配色;  固有色よりも主調色と諧調、光の律動による長色系(高明度,Y,YR,R,高彩度)を主とする対比。現象場の大気を示す透明や無限の象徴である短色相系列(P,PB,B)、これらは物象の陰(暗部)に働き、黒・褐色を追放する。
 形象;  純粋、個別的な色価の配列、対比色の並置(明・彩度の調律)、配色の対が色覚の弁証法を生む。
色彩感覚のマッスが形づくる形象であり、形象特性は一つのトナリテの領分として純化、時にはシルエットとして気化される。この固有性と物量の解放、リンカクの曖昧不確定性が無限的なエラン・ヴィタールを構図する。
  Maniere
8)手 法=


 「一つの意識となって現象場に同化している」ことから画面上の工作には意をはらわない。* トナリテの効果を見るのみ。
 自由で直接的・反射的な筆法がまず大局的なトナリテの全体を概括大らかな流動的で薄いタッチ。
 個々の場の種類に即した多向的な伸びのあるタッチ。それぞれの調律と脈絡を生むかすれたタッチ(擦筆)
* マチエールの効果よりも、メディウム(媒体)としてのバルールの働き。
 各部のヴィタリテと照応を生むアクサン、リトミックな点・線的タッチ
 の構成を旨とするところから完結・仕上げのメティエ、あるいは様式的マニエリスムを拒み、即時的なモチーフの必然に身をまかせて無我の境にある「意識」を知と手がひたすらに追いつづけるのである。
「果てしない拷問だ(モネ)」

  Style
9)形式価値=

 盲目に生れ、ある日突然、世界に出合ったらとモネは嘆息する。具体的叙事的な観念の像(フォルム)が純粋な知覚と実感をさまたげるからである。絵画する実存と宇宙との自由な語らい、「色彩と空間と時間」の超越的な場を求めつづけたその稀な試みの軌跡がモネの世界である。そしておそらくはモネという個性によってしか超越し得なかったであろうような、ヨーロッパ的精神風土、美と真との体系の歴史が人間と自然との無限的統一を拒んでいたのである。そうしたあらゆる価値が崩壊に瀕したデカダンの時代にモネは在り、しかもその思潮を身をもって体現するのである。つまりデカダンの動向にさえデカダンしたのである。街を捨てる。しかしミレーやコローのような地域社会も身分もない彼は天涯孤独のみなし子となった。無である
 モネが自然と無心に語らう特権を得たのはこうした瞬間である。とらわれるべき何ものもない。幸い教養の呪縛も左程のものではなく、何よりも本然的な生命力と豊かな感性が、この場・この一瞬に意識を衝き動かしていた。こうして虚心と真摯とたゆみのないヴィタリテが、自然との語らいを始めるのである。ひとつの純粋な媒質としての「眼」となって「天才」モネの日の出である。「精神と官能の悦びの極みを歌う」真昼が限りなくしずかに拡がっていくものと空間と時を超えて、あらゆる創造の媒介となって、ニンフとなって


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