| 「芸術と方法 アトリエルボー展に」 1969年のある日、ぼくは一人の不思議な人物に出会った。彼の職業はまさしく画家なのだが、ぼくがそれまでに知っていたどんな画家とも似ていなかった。彼の語る言葉は、むしろ数学者のそれのように聞えた。 例えば、ヴァレリイの「ユーパリノス(建築家)」の中で、ソクラテスはパイドロスに、なんでもいいから空間に一本の線を引いてみろと命ずる。そこに描かれたものは、肉体と精神の恣意性に随順した、なんとも曖昧で気まぐれな一本の線だ。次にソクラテスは「では、ここにある二本の木から常に等距離にあるような一本の線を引いてみろ」という。パイドロスは不思議そうに問う。「それになんの意味があるのですか」ソクラテスは答える。「私はこれ以上に人間的な行為を知らない」と。 ルボー・システムは、「二本の木から常に等距離にある線を引くという行為ほど、人間的なものはない」ということを、真底から感じ得た精神の所産である。関根英二こそ「自分は夢遊状態で傑作をかくよりは、むしろ完全な覚醒状態で駄作をかく方をこそ選ぶ」という人間的決意を、自覚的、実践的に言いえた最初の日本人画家ではないのか。 この「芸術と方法」展は、決して「傑作」を並べようとしたものではあるまい。ここにはただ「完全な覚醒状態」を指向し、そこに到ろうとする幾人かの精神の軌跡が、その方法が、示されている。したがってこの展覧会を、現代の芸術状況の中に置くとき、これは異様に孤独に純潔に見えるに違いない。
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| 「ルボーより」 芸術のありかたと成りかた 一かけらのチョークで無心に描いた遠い日々を想い起していただきたい。私たちが等しくもっているこの体験こそが、芸術のありかたを純粋に示しているのである。描く、という行為の中に全宇宙があった。感じ、欲し、想い、考えるなどのすべてが一体となっていた全人格的情況 それはまさに無心といえた。そこには生と知との政争はなく、私たち自身のすべてが在ったからである。そしてその行為を推しすすめていた力が、他のだれからでも、どこからでもなく、私達自身の内に生れ、働き、私達自身を新しい未だ見ぬ世界の試みに衝き動かしていたのである。 私たちはこうして内奥の秘かな渇きによって自己を超え、自己を拓いてきたのである。「未だ何ものでもなく、何ものにでもなり得る 幼ない日−それを私たちは現在の宇宙のひろがりの場で、遠い涯にぽつんとイメージしたがるものだ。そしてその行為を小さな、素朴な情動の表象として抽象し、あの壮大な世界と営為の全的な充実感を喚起することは不可能に近い。 私たちはそこに全身全霊を企投していたのではなかったか。あらん限りの生と知とで「未だない世界」の無限の可能性を実感していたのではなかったか。(大人は何にもわかっていない!) 私たちが今、切実に感じている芸術もそれである。全人格的活動を可能にする芸術、人間を拓く芸術である。そして拓かれる人間がまた芸術を拓く アトリエ・ルボーはそうした芸術とそれを可能にする個性の生成を導くような生きた美術体系を要請した。無限に拓かれゆく生の表現のための「いかなるモチーフによる、いかなる表現形態にも自在に対応し得る技法」を要請する。実技することと論考すること、タブローと学との有機的統一体系であるような構成 ソクラテスは「それ以上には人間的行為というものを識らなかった」と私には思える。パイドロスに「線を引くこと」を要求するなら、パイドロスの中に「みずから線を引く欲求」をこそ眼覚ますべきだったのだ。いや、より厳密にはその欲求の中にパイドロスを投げ込む必要があったのだ。 自生的な内なる渇きの必然を遠く触れて、契機を創りだし、行為を操作できるのは確かに人間の特性ではある。この意味の限りでソクラテス,ヴァレリーは正しい。しかしこれは抽象的選択的な人間の行為であるという点で正しくない。 積極的にも消極的にも、人間は何ものにでも成り得るのである。 その要請が現実的な機能と効果を問題としていて、その意味が内容への主体の充実を要しないなら、彼は機械的な技術を遂行するだけで事足りる。彼の人間的なあらゆる可能性が、こうして技術する機能にくくられるのである。これがもし、もっとも人間的な行為だというなら、自己同一的な衝動行為も等しいレベルで人間的な行為とされなければならない。その内に在ろうとすることなく、その外に身を置いて付加物の総和としての対象をしか知らなかったヨーロッパ的主知主義が、生と知との「生き別れ」や人間と技術の「冷戦」をもたらして挫折した事実を私たちは反省してみなければならないだろう。私たちが全的な一個の人間としてその世界にあるなら、どうしてどこかに属することなど出来よう。私たちは私たちが欲し、撰択するところを私たちの全体で充実していくだけなのである。私はこれ以外に人間的な行為を知らない 個別的な夢遊も覚醒もなく、それが決定するような傑作も駄作もない。強い芸術か否か、があるだけだ。ただ私たちが私たち自身のどんな力によって、いかに、どれだけ超え拓かれたか、ということに作品が対応するだけなのである。 |
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