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<創造>の歩み-序- >>  
創造のための美術史講座
No.2
Naturisme
本然主義
<マネ,ドガの、行きずりの日々>

 

編著 関根英二;ルボー主宰
 

現実から実態へEdouard Manet,Edgar DegasToulouse Lautrec


 レアリスム革命のクールベは1850年代後半には、サロンの受け入れるところとなっていったが、この思潮の現実は、これからだった。「汝自身の主となれ」「今日の絵画を創造せよ」という指標は、皮肉なことにその主題主義と古典的な技法ゆえに、この思想の本家本元といえるクールベをさえ過去に流し去っていくことになる。生きること、描くことの真実の模索、人間と表現の現在を問う実証精神、その現象学的探求 詩人ゴーティエをして「怖るべきレアリスト」と云わしめたマネの問題提起はナチュリスムと呼ばれる
 時代は変動していた。プロレタリアート、クールベは明日をひらくことに於いて現在したが、マネ,ドガ,ロートレックなどブルジョワの現在は昨日と明日の境にある束の間である。日々と自己の現在は、昨日(伝統)とソシエテ(体制的価値)からの脱却によってしか得られないのである。しかもその没却すべきものはみずからの「現在」をなしているのだ。
 クールベのレアリスムが英雄的な自己表現となり得たのは、明日が、昨日と今日から自由であったことによる。それにひきかえ、マネ、ドガ等のコンプレックスは、そうした時代精神と日々の実存との骨肉の戦い、によるものである。
 誠実な魂には、せまりくるたそがれにひとみを擬らして、なによりも今、しておかなければならないことがあったのだ明日は、この場・この一瞬の出合いに見出す生によってしか開かれないのである。
 街の灯はそこかしこに誘うが如く、無常をつぶやく
 
本然主義(Naturisme)体験的自然主義(印象派の契機となる)
 
  0bjet
l)客 体=

 人物・女性・情景・市井現実(生きざま、ありさま)、人間像(性格)、瞬視の状況、行為と環境(街・郊外)、時事問題。
 Motif/Moment
2)契 機=

 束の間の生の諸相。現在としての人間の場の実態。出合いの把握。即事的(マネ)、即時的(ドガ)、人間探求その実相と場(情況)の記録。さだめなき行きずりの日々の断章、無常の生への愛惜
  Sujet
3)意識主体=

 レアリスト;感覚的・多感・多情・繊細・寡黙・誠実・潔癖・実存主義・批判的・懐疑的・虚無的・アンニュイ・デカダン・散歩者・ダンディ
 ソシエテのユマニスト;社交的・多価値的・個人主義・自由精神、内省的知識人、共和派、ブルジョアジー、斜陽
 見者(voyant)、現象学的、直観的、即事的(マネ)即時的(ドガ)写実主義。進歩派、ゲルボワ党、パティニョール党。
 反理想、反ロマン、反アカデミー(サロン);ベラスケス、ドラクロワ(マネ)、アングル(ドガ)、クールベに学ぶ。ボードレール、マラルメ、ゾラと交遊。
  Image
4)表 象=

 現在としての生きざま・ありさまへの頒歌。善悪の彼岸としての市井現実の生々しい実在のポエジー、ドラマの主役への愛。行きずりの日々の感動のモニュマン。生の諸相(浮世)、情況マネ(状態ドガ)
としての人間性その現象と実態の束の間の輝きをとらえ、そのモチーフの必然のままに描出される創造的・個性的表現、客観された対象のレアリテの模写ではなく、主体のレアリテの表現。現実との生の出合い、語らいに生成進化する「現在」としての構成。
  「眺めるごとに絶えず新しい発想、新しい音調を生むような」「現にそうなっているのだから仕方がない」「真実は一つしかない」「泳ぎも知らずに水に飛び込む気がする」(マネ)
 Construction
5)認識構造=

 特定の価値体系の批判、新しい時代と価値の模索、時代の証人としての観察者・記録者である「画家」の自覚から、価値づけられざるもの(一つの事実)の実態としての眼前の状況をとらえ、その時事性・真実の誘意性を主題とする。
 理念・規範(イデアリスム)あるいは文学的思想(クールベ)のような目的的価値を一切認めず、ただひたすら市民社会の営為、生活の現場に身を置いてその日々のさだめにある現象としての人間世界を肯定。そこに事実の価値、人間世界のありのままの姿の価値をみていこうとする。
 「あらゆる真の知識は事実にもとづく(コントの実証主義)」「みずからの時代に忠実であれ(ドーミエ)」
 「人間のひらめきのあるもの、時代精神のあるものなら何でも私の興味をそそる(マネ)」
 クールベのレアリスムは、一つの理想としての社会像を掲げて現在に呼びかけたいわば相対的アンガジェであり、「世界と人間と芸術」は明日のものであった。しかし、この本然主義に至っては観念よりも現在の実践である。主体的な日々の営みである。思想なら昨日・今日・明日を展望できようが、そこに在る当事者にとってはそうした恒久性・持続性・体系性(構造)あるいは目的論的価値は約束されていない。このみずからの眼で身辺と日々を問い、神の加護にも先人の遺産にもよらぬこの手で、現在をアンガジェし、人間の価値を生み出していかなければならないのである。意味、価値の質量や拡がり史的社会的なスタティックな体系。
 こうしたニヒリズムを踏まえた「この場・この一瞬」の個別的・可変的な生これだけが真実在である。
 この流動転変する表象世界を主題としてマネの直観的構成理念(完成よりも誠実)は生れ、ドガの動態把握が錬磨されていくのである。
 「絵画の手練手管はわれわれをすっかりだめにしてしまった。そこからどうして脱出するか。単純明晰にしてくれるか、虚飾から救いだしてくれるか、真実とはだれがなんといおうとわが道を直進することではないか。」(マネ) 
 
 Composition
6)構成契機=

 実在との生の出合い、その時点の表象(直面・臨場)の描きとめ、見ること描くことの質的統一としての構成
 個の特質・実在性(マネ)、固有形態・実時間・動態・環境(ドガ)を中心画像とする構図。
 質量の節約・現象的な場の情況を活写しようとする。形態特性の重視。情況の主題となる事物の優先的構成。
 固有性の実感的把握;固有色・現象性・固有形態の表情、モティーフの場を形成している雰囲気・時間性・情況・環境の展開。
 主題とその周辺との価値づけはあくまでも「主題の場」として展開される。したがって特権的中心画像(人物・肖像)の場合は、これと正対し、直視する主体の意識の照射によってその個性が強調され、周辺は主題の近傍系として省略・限定・無化。そしてこれにともなう空間的構造性の無化は、反古典・反ロマンとともにクールベの物量主義とも対立する感覚である。見ること、意識主体の問いは、必然的に客観的世界観の定量・公理・機械的イリュージョニスムを踏み越えた出合いの実感心像に至らしめたのである。
 Technique
7)技 法=
   形象性;





    
     色価;

 ある場があるいくつかの個体の集まりがつくる全体。それら相互の作用場
 外延的統一(総体場)。主題を構成すべき個々の事物の特質・固有性の相対的(対比)価値づけ、列挙的全体。
 各個の要素の力関係とその作用の総体としてのバランス(対照性・対置・並置・集約・作用連関)の統一。
 地に対する図の特権性の強調(分化)は、客観に対する主観の優位の意識によるもので、単純化あるいは質量的組成の無化も、「出合い」の主体との相対性に一面化、心像化されることによる。直観主義的純化。
 黒・白、純色の多用、強く多彩な長色系を主とするりトム・コントラスト強いりトムの主題、弱く暗い周辺。
 明度対比(Bk:W)これは対象場の明・暗(光と陰)であるよりも、画像における構成的・心理的な配色として
 配色対比実感的色覚(主観的・サンサシオン)の対比;黒:ピンク、赤:暗緑、オレンジ:青など補色対比による多色対比。
 色彩の働きは構図・形態の単純化、モドレ(肉づけ)の省略、正面視などによる、面的タッチによって生の強い配色効果を生みだす。
  Maniere
8)手 法=

 即興的・随意的な速いタッチ、形態細部の不確定・省略、粗く簡潔な筆触による流動的な色面、薄塗り。
 自由で現象的(感情の進展とのコンプレックスによる)な多向的・個別的筆勢の集まりの全体場。
 全体場各部の交互作用の配慮:中心画像の明確化に画される強い線、又は対比的な色面・色線の強調。
 個々の個性・特質の区分、強調。周辺・背景などの抑制鈍い中間色による不確定なかすれたタッチ、ぼかし。
 こうして進化的・弁証法的に展開される複合的構成場の現在
  Style
9)形式価値=


 写実主義は、世界を映す鏡であることを本分とする。つまりその媒体となる画家が、厳密な観者となり、レオナルドのいう「神性」によって直観的に真実を読み、「時計の如く」正確に再構成するところを指したものである。少なくとも文学における写実とはこれである。
 ところがその真実が問題だ。これも一つの価値(主観)にはかならないからである。「事実」といってみても解決にはならない
 宗教的世界観から主知的実証的世界観へと、この問題が回ってきたのは18世紀の啓蒙思潮によるが、そのエポックをなすものが19世紀の写実・本然主義である。科学精神が世界の批判を試みたように、情意は人間社会の体制と思想に問超提起を試みる。クールベの出現は個性と「現在」の喚起、明日の自由へののろしとなった。現代の、今日の、時代精神の、真実の、である。
 マネの時代は、その自由思潮のるつぼにあった。多価値的な転変する雑踏のような今日、そのパリである。これが「現実」画家が把握し、生きるべき世界なのだ。時代を踏み、現実とアンガジェし、その世界を肯定止揚していくところに画家は存立していくのである。
 マネの真摯さは、シジュフォスの勇気によってだけ支えられた。目に映じるあらゆるものを生でとらえること、それが束の間の生命であれ、生きずりの愛であれ、鏡映であれ、あるいは見えすいた寸劇であれ、一つの現実ではないか、無常の人と世にあって、興味をそそり得る限りの何ものかではあるだろう。
 マネの写実は「アブサンを飲む男」と「草上の昼食」、「オランピア」によるスキャンダルに始まった。その主題の平俗と、ちぐはぐな(遠近法を無視した)構図、全体を統一し、個々の物量を成さしめる光と陰の失調、平面的で質量的堅固さを欠いた描法、原色と強い対比の粗野な配色などがサロンの教養にとって許しがたいものだったのである。
 しかし、それにも増して決定的なことは、その作品の類のない生々しさだったのである。その強さは画家があらゆる先入主を捨て、作法や結果への顧慮を捨てて、虚心にそこに在ることによってのみ得られるものである。モチーフの生命そのものの現前なのであるここにはもはやマネも画家もいない。ただ一つの意識がその誘われるままに生の境を渉っているのだ。眼とはこれである。眼は事物と本然的に一つの宇宙を生きるのである。
 マネの純粋な表現は、その生命の必然に発するものでしかない。
 その描かれる事物は合理主義(スタジオの光)にも、外的光にもよらず、主体の精神との照応によって、おのずから輝き、もの言うのである。画家は一つの自然となりその内なる生命となる
 こうして絵画の新しい生れかた、新しい真実が、一つの献身によって、あるいは虚心によって必然するのである。
 ここに「絵の真実(マネ)」があり、本然主義(Naturisme)の超越性がある。

   


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